
人々に届く製品、エアロコンセプト
エアロコンセプトというものは、
菅野敬一というひとりの職人の頭の中から生み出された製品である。
そして、その製品は、彼が無邪気に手を動かし、
脳の中の想像力、もしくは創造力を駆使してつくり出したものである。
普通なら、偶発的に出来てきたようなものが、
市場に受入れられるということは考えにくい。
でも、どうしてか、エアロコンセプトは、
あまりにも大きな求心力を持って受入れられてきている。
それが一体、どうしてなのか?
ひと言で言うのは、とても難しいことのように思われる。
しかし、製品の中に込められているコアとなる要素が、
今、世の中に出回る大半のモノのそれとは
異なっていることに間違いはなさそうだ。
それは、どういう想いかと言えば、
「いいモノをつくって届けたい」というシンプルな想いである。
「どうやれば、いくら儲かるか」という
いわゆる「経済システム」を土台にした発想ではなく、
あくまでも「思いやり」や「優しさ」、
くすぐったい言葉で言えば「愛」ということ、
原初的な人間の村にあったような
「思いやりのシステム(これをシステムと言って良ければ)」が
土台になっている。

自問自答というアプローチ
市場からの逆算でモノづくりをするのが当たり前の世界で、
菅野はまったく別のアプローチをしているのだ。
そのアプローチをひと言で言い表せば、
「自問自答」ということになる。
こんな原始的なアプローチが
世界を騒がせる製品を生むなどということは、
現代の常識から考えると、「ありえない」。
しかし、彼が市場調査を行う先は自分の心であって、
彼のお客さんは彼自身なのであり、
その彼と気が合う趣味をもった人々が
エアロコンセプトのオーナーということになるのだろう。
そして、そんな気心の知れた友人のような
エアロコンセプト・ユーザーたちの相手をするのも、
菅野自身だったりするし、彼らの中間に入る、
取扱店との摂折衝を行うのも菅野だ。
つまり、彼は、ひとり何役もこなす。
しかし、同時にそのことで、動物的に本能的に、
自分自身の「欲」と市場の「欲」の公約数を見出している可能性はある。

「欲」と「欲」の争い合い
そんな菅野にしても、
エアロコンセプトづくりで迷いが生じなかったことがないわけではない。
人が何か新しいことをはじめれば、
周辺の人たちは口を出す。
「エアロコンセプトをつくりはじめた当初から現在にいたるまで、
それは変わらないよ。
人は自分の責任のないところでは、
好き勝手なことを言うもんなんだ。
”これよりこうした方が売れそうですよ”とか、
”これをつくるべきです”とか、いろいろな意見が出てくるんだよ。
そこで、私は迷うわけです。
”お金は儲かるかもしれないけど、俺はつくりたくない”と。
そんなときは、”欲”と”本当に菅野が欲しいモノ”とを
天秤にかけなくてはならないんだ」。
なるほど、聞くとこれは、
「欲」と「欲」の争い合いのようなものだ。
つまり彼は、お金に対する欲を満たすか、
つくり手としての欲を満たすかで、迷いが生じるというのだ。
「でも、お金になびけば、
本当の自分というのは、どこまでも埋没いってしまうよね。
慣れてくれば、慣れていくほど、どんどん埋没していくよね。
でもさ、本音でつくったモノというのはさ、
つくり手の心っていうのはさ、埋没するんじゃなくて、
どうしてかモノを通じて世界に伝わっていくと思うんだ。
エアロコンセプトのまわりを見てごらんよ。
取材したいって言ってくる人もいれば、
海外から取引したい、オーダーメイドの製品が欲しいという人まで、
いろいろ表れるんだ。不思議なもんだろ」。

俺にだって、欲はあるんだよ
確かに、これまでも書き連ねてきた通り、
エアロコンセプトの支持者というのは、
決して少なくない。いや、驚くべきほど多い。
こんな数の支持者を何の広告を使うこともなく、
ブランディング戦略を練ることもなく得るのは、
驚異的である。
筆者は、広告関連のいくつかのプロモーションに
携わってきた経験を持つが、
広告的または広報的なアプローチだけで、
ある製品をこれだけ濃い顧客に訴求し、
しかも多くの支持者を動かす例は見たことがない。
きっと奇跡でもなければなし得ないことだろう。
だから、菅野のまわりに起きていることを
奇跡として捉えないとするならば、
彼の言うことに耳を傾けるしかない。
つまり、それは、モノに心を込めるということである。
そして、その心は、モノの上を伝って
人と人の間を往来するということである。
そして、心をモノに込めるとは、
無欲になってモノをつくるということに、また戻っていくわけだ。
「俺にだって、欲はあるんだよ。
たくさんある。ヴィンテージの車が欲しいとか、
ジョン・ロブやウェストンの靴が欲しいとか、
バシュロンの古い時計が欲しい、週2日は釣りに行きたいとか、
スキーのシニア大会で優勝したいとか……。
でも、そういう個人の欲も、お金に対する欲も、
ぜんぶ闘って、削ぎ落としていかないと、
本当に本当に自分が欲しいものというのは、見えてこないだよ。
俺もこう見えたって、自分自身と闘うのは、
結構、辛いことなんだ。
さらに、
他の人が押し付けようとしてくる考えと闘うのはもっと過酷だしね。」

「究極の欲」が結実したもの
そう言って笑う彼は、
恐らく、一般の人よりもジッと自分自身を見つめている。
しかも感情や陶酔に流されないように、
事実のみを淡々と見つめている。
それは、例えば、「自分はデザイナーではない」ということであり、
「売れるとは思ってもみなかった」ということであり、
「褒められてビックリした」ということなのだ。
そういう言葉の数々は、
彼が自分自身を謙虚に見せようとした結果、
口をついて出てきたものではないのだ。
ジーッと自分自身を見つめて、そっと出てきた言葉なのだ。
しかし、ひとつ菅野自身も気がついていないことを言うとすれば、
エアロコンセプトは、
「究極の欲」が結実したものであることであることは間違いのない。
彼の心の中、
そして彼のまわりの人の提示する「欲」の中から、
本当に本当に手にしたいものとして選ばれた「ひとつの欲」、
勝ち抜いた「一欲」である。しかし、その究極の欲は、
他のあらゆる欲に打ち克たないと浮き上がってこないものなのだ。
そういう精神の極限から生まれたものが
エアロコンセプトであるならば、
それが世界の人々を感動させるということにも、
多いに納得できるはずだ。
心は、モノを通じて人に伝わる。
それは、ストイックに青春を投げ打ってでも、
ひとつの競技で勝ち抜きたい、世界一になりたい。
そう願うオリンピックアスリートに似ている。
彼らもまた、あらゆる欲を抑え、一欲に邁進した人たちだからだ。

物と物の出逢い。人と人との出逢い。そして物と人との出会い。
これはその人と物との感性のコラボだと思っています。いくら人がいいと言ってもその人の感性が「いい」と感じないと何の意味もありません。菅野さんの創る「物」達はあらゆる人の感性を刺激し引き出す事もあるようです。あたかも人が人に感情を抱く様に・・・。だから菅野さんの「作品」達は単なる「物」ではないのではないでしょうか。そこに菅野さんの「魂」が込められている限り。認められる事が目的ではなく、菅野さんの遊び心がある限り世界中の人が魅了されていく事でしょう。私がそうだった様に。あなたがそうだった様に・・・。