
みんなが欲しいもの、ぼくが欲しいもの
会社が倒産する前にも、菅野は自分の好きなものを空いた時間や余った材料などを使って、つくる作業はいつもやっていた。その出来映えには、満足していたし、使い心地にも満足していた。何しろ、ユーザーは自分自身しかいないわけだから、自分の好きなものをつくるのは、そうそう難しいことじゃなかったのだろう。彼にとっての、その余暇的なものづくりは、頭にあるイメージを自分の手の上で材料と道具を転がして、3次元空間に物質化するという作業である。
世界で営まれる町工場においても、こういうことをやっている工場のオヤジというのは、案外いるはずだ。便利なものを日用大工的に製作してしまう。しかし、菅野が特別なのは、彼がつくり出すもののクオリティが最初から尋常じゃないものだったということだ。筆者は、彼がはじめにつくっていた書類ケースや鞄というものを何度も見せてもらったが、その美しさは筆舌につくしがたい。つまり、「自分が欲しいと思うものをつくっただけ」というのは、「こんなもの、つくってみました!」ということではなく、モノに対しての徹底的なこだわりがある人間が、「こういうものをつくってやるんだ!」という意気込みを持ってつくったということだ。

「俺たちは、いつも航空機の内部パーツだとか、新幹線の内部パーツを眺めては、美しさを感じていたわけだよ。本当に美しいなぁってさ。それで、そういう精度の高い板金加工されたパーツを使って、持ち歩くものがあったら、俺が、ほしいなぁって思ったんだ」(菅野)。
菅野の頭のなかには、最初から3次元のエアロコンセプトの映像が浮かんでいた。それは、土門拳や名取洋之助、木村伊兵衛が「シャッター以前」という言葉で言い表したものに近いのだろう。「シャッター以前」という言葉は、写真家の間では当たり前のように使われている言葉で、本来写真家は何百カットも撮った中からいいものを選び出すのではなくて、最初に頭のなかにあるイメージに沿って被写体を探し当て、露出とシャッタースピードを調整するだけだというものである。何を伝えるべきか、それは外に物質として現象化される前に、内に、つまり心の中にはっきりと描かれていなければならない。「シャッター以前」という言葉は、写真好きの菅野の口からも聞いたことがあった。だから、彼は恐らくはそういう作業をエアロコンセプトづくりの中にも、意識的にか無意識にか用いているのは間違いのないことだろう。

菅野と話して一番に感じることは、最初に映像化されるものにほとんどブレがないということである。菅野敬一というつくり手の想いが、つかい手である菅野敬一と寸分違わぬ形で結ばれて、はじめて作品は完成する。こういうブレのない作業を、いわゆる世にあるメーカーがその製作をしようと思ったら、一筋縄ではいかない。そこには営業マンがいて、マーケッターがいて、企画マンがいて、デザイナーがいて、プロモーション担当がいて、広報がいて、会社の取締役がいて、株主たちがいる。最初のビジョン、イメージがどこから出てくるかも企画にによって変わるのだろう。そして、その製作意図、テーマを研究開発、製作を通じて維持し、チーム全体で共有しなければならない。その上で、ビジョン、イメージにブレがなくなるというのは、まったく簡単なことではない。
「みんな、それぞれがそれぞにに欲しいものを言い合ったら、五目あんかけカレートマトソースステーキチャーハンになってしまうんだよ。みんなが食べたいものというのは、実は誰も食べたくないものなんだ。だから、渓水では、今までのところは、僕が欲しいものを考えて、それを形にすることを考えているんだ」。

デザイナーやマーケッターやプロデューサーなど、大きなプロジェクトには必要不可欠の存在とされている人たちだ。もちろん、彼らのコミュニケーション能力や表現力、分析力は決して過小評価されるべきものではない。彼らがいるお陰で、それぞれの役割をそれぞれの人が効率良く進めることができるのだ。そして、彼らがいるお陰でクリエイションやクリエイティブと呼ばれるものでお金を市場から集めることができて、多くの人が生活を保障されるのだ。

しかし、真剣にものづくりということを考えてみたときに、必ずいらない人材、余剰人材というものが出てくる。そして、彼らはプロジェクトに参加しているだけでは満足いかずに、口を出すことで存在をアピールしようとする。プロとしての意見が、いろいろな人の立場、観点から語られるわけだから、一見すればいろいろな角度から鍛えられれたプロダクトというものができあがりそうな気もするのだが、実際にそうなることはほとんどない。試しに、量販店の家電売場に行くとわかりやすいだろう。そこに並べられたものの中で、そこそこ欲しくなるものは沢山あるだろう、しかし借金してでも心底欲しいと思えるオブジェ、道具というのは案外少ない。帯に短し襷に長し。どれもこれも、何かが欠けてしまっているように映る。そこにつくり手の想いや哲学を感じる製品など、皆無に等しいのではないだろうか。たとえ源となるアイディアが素晴らしかったとしても、それが下流に、売場に近づくにつれて薄められては、決して人の心の奥深くまでは届かないということがよくわかる。ただ、現代という時代においては、消費者としても「とりあえずの普通に使えるものがあればいい」、そう考えている。確かに、それでいいのだ。求める機能さえあれば、何もこだわりの逸品を高いお金を出してまで買うことはないのだ。だから、五目あんかけカレートマトソースステーキチャーハンを買い、マクドナルドを食べ、コカコーラを飲み、ユニクロや無印にトヨタの車に乗って行くのである。
