日本工房と土門拳

千佳慕が、はじめて勤めた会社は、日本工房というデザイン会社だった。1933年のことである。日本工房というのは、ドイツのバウハウスの思想に影響を受けた名取洋之助が、木村伊兵衞らとともに設立した報道写真のための会社であり、デザイン会社、図案作成会社でもあった。
今でこそ、「デザイン」などという洒落た言葉が当てはまるが、当時は「図案」という言葉しかなかった。だから、その頃の彼の肩書きは、図案家だ。
千佳慕がこの会社に入ることになったのは、彼が師匠と慕う、グラフィックデザイナー山名文夫という人物の存在があったからだ。山名は、日本人にとっては馴染みの深い資生堂のロゴや、新潮社の葡萄マークなどに携わり、まさに日本のグラフィックデザインの世界を切り拓いてきた人物であった。
当時、千佳慕は、そんな彼の弟子だったのである。
「私と山名先生は、とても相性がよくて、何も話さないんだけど、通じ合える中でした。それに彼は、私のつくるものをすごく気に入ってくれていて、私を日本工房に呼んでくれたんです」。
その頃、千佳慕が任されていたのは、対外宣伝用の雑誌『NIPPON』のエディトリアルデザインだった。この雑誌は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語の4カ国語でつくられた、いわばプロパガンダのためのグラフ誌だったが、今、手にとってページをめくってみると、そのクオリティの高さには驚かずにはいられない。誌面構成や写真の使われ方が斬新なのである。米『LIFE』誌(1936年発行)よりも早く創刊されているにも関わらず、その誌面のハイカラさは他に追随を許さない。現代だからこそ逆に新鮮に感じるということもあるのだろうが、客観的に見直してみても、やはりそこには、いつの時代にも人の心に何かを訴える普遍的な美しさが備わっているように感じられるのだ。

「あの頃は、仕事で体を壊すくらいに仕事をしてたの。僕の好きなことを僕のやりたいようにやらせてもらえてたから、面白かったですよ。だから、ついつい仕事が遅くなってしまって、家に帰るのも遅れてしまうという具合でした。日本工房に入るまでは、遊んでばかりいたから、入った後は、意地になって仕事ばかりしていたのでしょうね」。
日本工房があったのは京橋、千佳慕の家があった横浜からは電車でなければ通えない。電車といっても、今のように交通事情が発達していたわけではなかったから、通勤も楽ではなかったようだ。ルートの話を聞くと、途中、歩かなければならない箇所などもあったという。横浜から品川を抜けて新橋へ辿り着き、そこから歩いて京橋の事務所へ向かうときもあれば、山手線環状線を使って東京駅へ、そこから京橋まで歩くときもあったそうだ。
しかし、どれほど大変な想いをしてでも通う面白さがあったことは、そこに集められた職員たちの名を目にしただけでも頷けるはずだ。創設者であり写真家の名取洋之助、師匠の山名文夫、写真家の土門拳、藤本四八など、名を連ねる錚々たるメンバーたちが小さなオフィスで未知の世界を切り拓こうと立ち働いていたのだ。報道写真の世界を切り拓き、グラフィック・デザインの価値の高さを世に問うた日本工房は、偶然という名の神が当時のクリエイティブな才能をひと所に集めたとしか考えられないほど、素晴らしい能力の持ち主が集まっていたのだ。ちなみに言えば、初期の段階の日本工房には、木村 伊兵衛(写真家)も参加しているし、千佳慕にとってはずっと後輩になる亀倉雄策(東京オリンピックのグラフィック・デザインを担当)もこの会社に籍を置いた。まさに、日本工房は、日本のグラフィック史の礎をつくったと言っても過言ではない場所である。そこに、ひとりの社員として、飄々と勤めていた千佳慕は、むしろ極めて異色な存在だったのかもしれない。

「土門と私は本当に仲が良かったんです。彼は、僕が入った翌年に入ってきたのですが、年齢を言えば僕の2歳年長です。気性も荒くていつも目をギョロギョロさせながらえばっていましたけど、社長の名取さんにはよく怒鳴られていました。ところが、彼はどういうわけか。僕にだけは優しかったんですね。何か言葉では説明できない信頼関係のようなものがふたりの間にはあったんですね。名取さんにせっかく撮ってきた写真を破られてしまうなんてことはよくあって、そうすると土門は暗室に隠れ籠ってしまうんですね。それで、彼を外に引っぱり出させるのが、僕の役目だった。ふたりの間には、ふたりにしかわからないノックの暗号があって、僕がそのやり方でドアを叩くと、彼が出てくるという具合でした」。
土門拳と言えば、写真などあまりよくわからない人間でも一度くらいは耳にしたことのある写真界の大家だ。中でも仏像の写真は有名で、リアリズムの鬼と言われ、その被写体に迫る彼の手法は、現在、多くの写真家たちにとっての伝説として語り継がれている。飲まず食わずで一昼夜撮影し続けた話や、モデルとなる大人物を怒らせても、その怒った顔を撮り続けるなどしたなど、写真にかけた執着心と情熱は尋常なものではなかったのだろう。だから、少しでも文化に触れたことのある人間なら、彼の名前を聞くだけで、背筋を伸ばさずにはいられぬ得も言えぬ力が、「土門拳」という名前には宿っているのだ。ところが、千佳慕の口から話される土門拳は、まったく違った表情を浮かべている。

「土門は、本当に貧乏な家に生まれ育った男で粗野だったんです。だから、カメラなんて渡されても、ろくに使い方もわからないという状態だった。あるとき、私と彼が最初に撮影に行かされたところが、早稲田大学。生徒さんたちの集合写真を撮るためでした。土門にとっては初めての撮影です。ところが、彼はカメラをセットして、布をかぶるところまでは良かったのですが、いつまで経っても布の中から出てこない。学生さんたちもいつまでも終わらない撮影にいらだち始めていた。それで仕方なしに、僕が”土門、一体、どうなっているんだ?”と聞くと、”五郎ちゃん、生徒がフレーム内に収まらないだ”と言う。それで”お前は何しているんだ。カメラを後ろに引けば収まるだろ”と教えてやったんです。そうしたら、”入った、入った”って大喜びするんですね。それ以来、彼はよく僕にどうやったら写真がうまく撮れるかを訊ねてくるようになった。僕はグラフィックの図案家で、いつも自然の中で自然を描く画家だったけれど、どういうわけか、僕を頼りにしていろいろ聞いてくる。だから、そのヒントを出してあげたわけです。」
リアリズムの鬼と言われ、後世にも語り継がれている土門拳が、まるで何も知らない少年のように語られるのは、どこか不思議な感じが残る。しかし、千佳慕が話を大げさにして嘘を言っているとはとても思えない。それは、千佳慕の絵を観ただけでもそう感じるし、彼の神への信仰心、自分を正直に表現するという自身の信念を考えてみても、そうだ。そんな彼の口から描かれる土門拳はどこかおっちょこちょいで、垢抜けない。
「土門は後に仏像やら文楽やら歌舞伎などを題材に写真を撮るようになっていきましたけど、元々、彼はそうした文化的なものに慣れ親しんでいたわけではないんです。だから、彼が最初に文化的なものに触れる好機となったのが僕と一緒にやっていた”NIPPON”だったのだと思います。あるとき、僕らは民家に置いてある雛人形を撮る機会がありました。そこで、僕は部屋を真っ暗にしてあちこちから照明を当てて撮ってみようと提案しました。そうしたら、土門もその撮影を楽しんで、出来上がったものも予想外に立体的になっていて満足ができたのでしょう。それで、当時の仏像写真というのは、とても平板なものばかりだったものだから、僕がこういうやり方で仏像を撮ったら、きっと面白いはずだよ、と彼に示唆したら、もう意気揚々として仏像を撮りに出かけていったんです。」
もちろん土門も人の子である。だから、何かしらの影響を誰からかどこからか受けるのは、人としてクリエイターとして当然のことだろう。しかし、まるで同窓会で出来の悪い悪友の思い出話を思い浮かべるかのように、かの土門拳について語り、その影響のいくつかを千佳慕が出しているという事実には、やはり驚かずにはいられない。しかしもっと驚かされるのは、千佳慕のさらなる提案である。

「勇み足で出ていったのは良かったのだけど、土門は、結局、いいのが撮れなくて、落ち込んで帰ってきたんです。それで、僕は土門に言ったんです。”撮ろう、撮ろうって想いばかりが先にいっちゃうから駄目なんだよ。一度、カメラ機材を全部、置いていって、仏像にどうやって撮ったらいいか聞いてご覧。一日、仏像の前に座っていてご覧よ”そう言ったんです。そうしたら、彼は僕の言うことはちゃんと素直に聞くんですね。二度目に撮影に行って戻ってきたときには、”五郎ちゃん、ありがとう、わかったよ”と嬉しそうでしたね。でも、後に彼が名を成したのは、やはり彼の写真に対しての情熱があって、熱心によく勉強をしていったからだと思いますよ」。
千佳慕は、熱心なクリスチャンだ。それでも、彼の中には、「万物と対話する」というアニミズムに通じる考え方が息づいている。千佳慕の描く昆虫の絵や草花の絵にも、その精神は色濃くあらわれている。彼の作品の多くは、彼が生き物たちと対話をした結果の産物である。そんな彼が土門にしたアドバイスは、まさに彼が幼い頃からしたことだったわけだ。後に、土門拳と会った人たちの多くは、彼をして「観察の人」と評している。それは彼が、いやというほど物事を観察するからだ。その原点をが千佳慕から来ている言ってしまってはそれはあまりにも乱暴な話だが、少なからず千佳慕の影響というのはあったことは間違いない。

千佳慕は、言う。
「僕はその昔、名取さんに”お前もカメラをやれ!”と言われたことがあるんです。それは、名取さんとしては、”NIPPON”をビジュアル的に間違いのないものにしたいから、図案家で画家でもある僕に写真を撮らせれば、技術の修得も早いし、早くものになるという考えがあったようです。でも僕は、”僕には、神様がくださった二つの眼と心の眼のいわば三眼レフカメラを持っているので、できません”と答えました。同じことを土門の前でもうそぶいていたら、土門はそれをよく覚えていたみたいです。晩年になって、彼の写真展を訪ねたときに、”五郎ちゃん、やっぱり五郎ちゃんのリアリズムには負けたよ。”そう言われました。写真と絵のリアリズムを比べても仕方がないことなのに、彼はどこか心に残っていたことがあったのでしょうね。」
報道写真やグラフィックデザインの世界における日本工房も、写真の世界における土門拳も、日本のクリエイティブ業界においては燦然と輝ける伝説である。しかし、オンタイムでその場、その時を生き抜いてきた千佳慕にとっては、どちらも古き良き思い出でしかない。だから、彼が語る伝説には、伝説らしいセピア色のニュアンスがなく、ただ愛情にあふれる日記のように淡々と、それでも嬉しそうに語られるだけなのだ。