

鹿児島県にある桜島は、鹿児島に住む人々にとっては心のシンボルとも言える風景なのでしょう。半島である桜島にそび立つのは、御岳と呼ばれる活火山。この火山が、現在も小規模な噴火を繰り返しています。桜島焼は、桜島の火山灰と温泉水を使ってつくる焼き物です。桜島ならではの素材を用いた陶器。ここには、この土地の心が映されているのでしょうか、見る人に自然の豊かさと原始的な荒々しさを印象づけます。この桜島焼きをつくるのは、桜島の麓に店を構える桜岳陶芸。この窯元、伝統から数代と続く窯元ではありません。なんと、この窯元、ある男の人が一代で築き上げたという一風変わった窯元なのです。
場所:桜岳陶芸

まず、はじめに、この桜島焼きの魅力というものをお話いただけますか?
ものによって違うのですが、銀彩と呼ばれる輝きが特徴ですね。鉄分の多い鉱物を多く含んだ素材を使って、1300度という高温で焼くため、銀色の光沢のようなものが出てきます。
何か自然の雄大さのようなものを感じさせる焼き物ですよね。
私たちは、そこに自然のエネルギーが宿されるから、何とも言えない渋さが個性となってが出てくるのではないかと思っています。


桜島焼きというのは、どんな歴史を持った焼き物なのでしょうか?
実は、桜島焼きというのは、いわゆる伝統的な歴史を受け継いだ窯元ではないんです。桜島自体はきっと数万年前からあったのでしょうから、素材という意味からは古い歴史を持ってはいるのですけどね。実は、この焼き物は、父がはじめたものなんです。
なるほど。それではお父様は陶芸家のような方だったわけですね。
いいえ。元々、父は地方公務員で桜島町の観光課というところに勤めていた人です。お役人ですね。それが何を思ってか、突然、窯元をはじめてしまった。きっと、仕事で薩摩焼で有名な伊集院なんかを訪ねて、頭の中ではひらめくものがあったのでしょうね。


地方公務員と言えば、安定していて一番いい職業だと思うのですが、そこを辞められたんですか?
そうですね。突然、家族の者に相談することも一切なく、”辞表提出してきたから”って言い出して、焼き物をはじめました。私もまだ、高校生でしたから、何かはよくわからなかったけど、”一体、何をしはじめるのだろう?”というのは思っていましたね。父が40代後半の時の人生の決断でした。家族の者は反対する暇もなく、そこから窯元を手伝わされることになるわけです(笑)。鹿児島の男の人って頑固だから、一度言い出したら聞かないんですよね。
それにしても凄い話ですね。そんな決断をする位なら、よほど、陶芸に興味があったり、センスがあったりしないとできませんよね。
もちろん父は薩摩焼きなどには、多少の興味はあったと思います。でも、不器用な人で、陶芸なんかやったこともなかったはずです。だから、1972年頃の工房立ち上げ当初は、失敗の連続でしたし、勉強をしてはつくる勉強をしてはつくるの繰り返しでしたね。


何の予備もなく突然、窯元をはじめたということは、そのときは収入源は何もない状態なわけですよね。
はい、そうですね。ただ、毎日ひたすらつくる。それを2年間は繰り返していました。だから2年間は無収入です。営業をしようなんていう頭もありません。併設のお店もつくってみたけど、モノを売った経験なんかないものですから、店構えも民家みたいに門のついたお店でした。
家族経営という形でやられていたわけですよね?
そうですね。父が竃炊きをやって、姉がろくろをまわして、私が絵付けをやるという具合、他に従業員も2人ほどいました。母親は別に果物屋さんを営んでいました。だから、生き延びてこられたということがあるかもしれないですね。それでも、ウチは借金だらけでした。毎月末の支払いに恐怖というのは、今でも忘れられないですね。でも、それ以外は、案外、呑気なもので、”つくってさえいれば、いつかお金になる”と思っていました。”焼き物は賞味期限がないからいいね”なんてことを話しながら。だから、在庫はたまっていく一方だったんです(笑)。


売上げが立つようになったのは、いつ頃のことからなのでしょう?
それは観光ブームのやってきた頃ですね。1976年頃の話です。あの頃は、海外旅行に気軽に行ける時代ではありませんでしたから、みんな国内旅行を楽しんでいた。特に、宮崎、鹿児島というのは、旅行地としては人気スポットだったんです。ハネムーンなんかも、ハワイやグアム、サイパンではなくて、九州に来られる方が随分いたんですよ。それで、鹿児島に来て、桜島に来ると、ウチに寄って焼き物を買っていってくれるお客さんが増えていったんです。
一代で窯元を軌道に乗せるというのは、ある意味凄いことですね。
卸先にだまされて、数百万円も損益を出すことなんかもありましたけど、それでもバブル経済が盛り上がっていった80年代は、飛ぶように売れていきましたね。ウチの広い駐車場が満車状態でしたから。それに、棚には、売るものがなくなってしまうなんてことさえありました。そうすると、お客さんは、何か買って帰りたいものだから、器が焼き上がるまで外で待っているんです。

まさに出来立てホヤホヤの器を持って帰るわけですね。
そうなんですよ。竃の中にある陶器を見て、”これとあれをください”なんて、今では信じられないようなことをしていましたからね。
それでは、今、そしてこれからについては、どのようにお考えなのでしょう?
実は、去年、ここの創業者でもある父が他界しました。今は不況なので、決していい状況とは言えないのですが、2011年には九州新幹線も開通します。きっと、客足も鹿児島の桜島まで伸びるんじゃないかなあと思っています。もう、私たちはどん底は知っているのだから、そういう意味では怖いものはない(笑)。これからも、無借金経営で、いいものをつくってお客さんに提供していけたらと思っています。

家族が、今も、お父さんの遺志を継いでやっていると知ったら喜ぶでしょうね。
そうかもしれないですね。でも、私は、”どうして焼き物をはじめたの?”ということだけは、父に聞いておけば良かったと思うことがあるんです。それは、今もって、私たちにも分からないんです(笑)。
