鹿児島県にある桜島は、鹿児島に住む人々にとっては心のシンボルとも言える風景なのでしょう。半島である桜島にそび立つのは、御岳と呼ばれる活火山。この火山が、現在も小規模な噴火を繰り返しています。桜島焼は、桜島の火山灰と温泉水を使ってつくる焼き物です。桜島ならではの素材を用いた陶器。ここには、この土地の心が映されているのでしょうか、見る人に自然の豊かさと原始的な荒々しさを印象づけます。この桜島焼きをつくるのは、桜島の麓に店を構える桜岳陶芸。この窯元、伝統から数代と続く窯元ではありません。なんと、この窯元、ある男の人が一代で築き上げたという一風変わった窯元なのです。
風合いの良い革にリベットが、等間隔に打ち込まれている。四隅は滑らかなカーヴを描いており、繋ぎ目には隙がない。キラリと光を反射させ、ポコポコと真ん丸の穴が空けられているのは、ジュラルミンやアルミニウム合金と呼ばれる軽量の金属素材だ。その金属素材、そして自然な風合いの皮革をひとつにするのは、驚いたことにステッチ、つまり針が通された縫い目である。物にフェティシズムを感じる人間なら、好き嫌いの別はともかく、自然に手が伸びるプロダクトというものがある。エアロコンセプトというブランド名を冠したこの物体は、間違いなくそんなモノのひとつに数えられるものだ。 アタッシュケース、旅行鞄、名刺ホルダー、眼鏡ケースなどの小物からテーブルや照明器具、そしてギターケースまで、そこには徹頭徹尾に貫かれたトーンが敷かれる。とても謙虚な物体とは言えない。得も言われぬ厳かなオーラが辺りを包む。それも一瞬にして。この物体が風を切って、ひと度、公の場にその姿を現すと、誰もがその存在に気づく。この表現が大げさかどうかは、実際にこのブランド・プロダクトを携えて、外を歩くだけでいい。次々投げかけられる視線に、まるで自分自身が人気者にでもなってしまったかのような錯覚さえ覚えるはずだ。この製品が内包しているのは、紛れもなく毒である。嫌いな人は徹底的に嫌いになるに違いない。しかし、それとは正反対にこの毒の虜になる人も多い。中毒性をはらんだブランド・プロダクトというものは厄介だ。いくら自分の身の丈に合っていなくとも、いくら懐が寂しかろうとも、その毒牙にかかったら異なる同じブランド製品を手に入れたくてたまらなくなる。ふと気づくと、手はそのプロダクトの感触を確かめ、心はそのプロダクトの存在を何か自分の存在と重ねて拠り所にしてしまっているような節さえ出てくる。カメラならライカ、車ならポルシェ、コンピュータならアップルと言ったところだろうか。 何というセンスのデザイナーがいるのだろう。およそデザインの方程式というものがあるのなら、そんなものは微塵もここには見受けられない。ミニマルなラインがどうとか、オーセンティックな素材の風合いがこうとか、用と美の同居とか、そんな御託はこの存在感の前にはチープすぎるのだ。「泣く子も黙る」という表現は、無邪気だけどわがままな子供の心のさらに奥にある部分に訴えたモノやヒトが登場したときに、ハッと我に帰させる現象を指して言うのだろう。現実にはめったに目にする光景ではない。けれども、現実にこのエアロコンセプトと呼ばれるブランド・プロダクトは見る者の精神に、「泣く子も黙る」ような黒魔術じみた現象を起こすのだ。だから、その現象はエアロコンセプトが駆け抜ける空間で起こり続け、人々をまごつかせるのだ。 このブランド・プロダクトをつくった人物はデザイナーではない。「デザイン教育」というものを一切受けたこともなければ、そんな言葉が存在することすら知らない人物である。彼の名を菅野敬一という。1951年、東京は港区麻布新堀町に生まれた。今、麻布と言えば地価の高い一等地のように言われているが、実際にはやや事情は異なる。麻布地区の中でも、高台は高級住宅地、低地は下町なのだ。菅野が生まれたのは、後者の方た。彼は下町の板金工である。そんな下町の職人がつくったのが、魔性のプロダクト、エアロコンセプトというわけである。 筆者と彼は、取材を通じて知り合った。その当時、のめり込んでいた「ものづくり」をテーマに据えたウェブマガジンの取材だ。一回きりの取材で、取材者と被取材者が心を通わせるということは、稀にある。しかしその後も、近況を報告してくれる人というのは、案外少ない。また、こちらから、妙に馴れ馴れしい具合に接するわけにもいかない。常に文字、言葉を受け取る立場に立って、客観性、中立性を重んじて、情報を発信しなければいけないジャーナリストにとって、馴れ合いのべったりとしたコミュニケーションは禁物だ。つかず離れずな距離感がこちらにとっても都合が良い。ところが彼の場合は、ナチュラルにその辺りをわきまえているようなのだ。近況報告をくれると言っても、馴れ馴れしくするわけでもなく、広報活動といった風でもなく、たださらりとした情熱をレポートをしてくれる感じだ。「人なつっこい」というのとも「厚かましい」というのともまったく違うコミュニケーションの仕方なのだ。あえて、彼のコミュニケーションを形容するのなら、「気さくなで温かく」「クールで粋」といった言葉がしっくりとあてはまりそうだ。職人らしくもあり、東京っ子らしくもある。 その彼が暑中見舞いを兼ねたメールはこんな具合のものだった。 「お盆休みに入って、毎日「暑いなぁ」とぼーっとしている日々。ユマ・サーマンのヴァニティー・ケースを依頼してきた人が、今度はジョージ・クルーニーに眼鏡ケースと鞄をつくって欲しいと依頼してきました。彼は派手な色は嫌いなので、グレーか黒がいい、と。”カスタムすると高くなってしまうんですけど”と言うと、”いくらでもいい”とのご返答。ジョージ・クルーニーにはどんな鞄が合うのかなあ、なんて考えながら暑い日々を過ごしています。」 ユマ・サーマンにジョージ・クルーニーにジョン・レノンとオノ・ヨーコの愛息子のショーン・レノン、ポルシェにフェンダー、ビームスにユナイテッド・アロウズ、そしてコムデ・ギャルソンにルイ・ヴィトン。彼が吐き出す言葉の中には、時折、およそ町工場の職人、50代の中年が発しそうにない不釣り合いな言葉が並べられる。しかし、彼は別段、海外ドラマに狂うハリウッドセレブ・マニアというわけでもなく、ファッションにかぶれて、若い子にもてようとするチョイワルオヤジでもない。彼がそうした言葉を並べるのは、それが彼の生活に起きてきた事象であるからでしかない。 「”みんな、菅野さんのエアロコンセプト、凄いことになっているね。”、そう俺に言ってくるんだよ。でも、俺だって、”本当にそうだね。本当に凄いね”って返すしかねぇんだよ。だってそうだろ。まさか、俺だってこんなことになるなんて思ってもみないもの」
愛媛県内子町五十崎、とある取材の空き時間、ふと不思議な噂を耳にしました。 「この土地には不思議な仙人のような人がいるんです。あの人、口では何も言わずとも、人を動かす不思議な力がある人なんですよ。いやぁ、不思議だ、不思議だ」。 一体、何のことだろう? 甘いお金のささやきでも、鉄拳制裁でも、飴と鞭でもないというのなら、どうして人が人を動かすことなどできるのだろう?そんな不埒千万を思うのは、筆者だけなのでありましょうか。しかし、この地域の人たちは、その話に首頷するばかり。 「わかる、わかる。あの人には黒魔術的な何かがあるよ」。 な、なんと、黒魔術。 そ、そんなマジカルな方ならば、是非ともお会いしてみたい。 こうして、お会いすることになった人物は、亀岡酒造の会長を務める人物、亀岡徹さんでした。
近代的絃楽器と伝統的絃楽器。そのコントラストを楽しみたいと、先週に続き訪ねたのは、「三味線かとう」です。同店があるのは、路面電車が往来する東京の下町、荒川区。淡い懐かしさ漂うこの界隈に、チトシャンベンベケとあの三味線の音が響きます。でも、その音、実はフツウの三味線の音とはちょっと違う。何と、その音には電気が通っているのです。エレキ三味線? うーん、何やら色物的な響きですねー。ところがどっこい、同店には、蒼々たるプロの三味線プレイヤーたちが顧客として名を連ねる。さあ、一体どうしてでしょう?
ひとりの老爺 きらきらと陽光が降り注ぐ、花乱れ緑溢れる庭がある。蝶や蜂が舞い、アリやカマキリが行進をする。忙しなく動き回る虫たちの中に、ひとりジッと身を屈める老爺がいる。彼の目は、ほとんど瞬きをすることもなく、虫たちの姿を追っている。ときおり太陽を映すその瞳は、幼子のそれのように澄みわたっている。年のせいか、顔には幾本もの皺が走っているが、その割には皮膚には潤いがある。彼が虫を見ているのは、頭の中に虫たちの表情や動きを納めるためだ。たった数十分の間に、焼き付けられた虫たちの姿は、その後、この男の指先と彼の愛筆を通じて画用紙へと写し取られる。 この男は画家なのだ。「私は虫であり、虫は私である」。こんな珍妙な言葉をよく口にする彼が精を出すのは、ボタニカルアートと言われる分野の絵画である。ボタニカルアートとは、読んで字のごとく、「植物の芸術」ということになる。しかし、この男が描いているのは、草や花というよりも虫だ。花と草木は、脇役なのだ。だのにどうしてか、みな、彼のことをこの国のボタニカルアートの第一人者として認識している。当の本人も、ボタニカルアートの分野でくくられることを意に介す様子はない。とにかくこの男ほど、「飄々」という語が似合う 人物もいない。来る日も来る日も、彼はこうして虫に向き合ってきた。虫を眺めているうちに、歳月は流れ、彼も歳を取った。現在、彼の年齢は97歳である。100歳という大台ももう間近だ。しかし驚くべきは、いまだ彼が現役であるということなのだ。だから、今日も彼の目は庭の虫たちに向けられる。 私は彼に出会ってしまった 私が彼のことを知ったのは、とある雑誌の記事だった。ふと立ち寄った書店の雑誌コーナーで、時間潰しのために手に取ったのが、たまたまそれだった。ペラペラとページをめくり、空っぽの頭のままに、手を止めた。別段意味があってのことではない。本当に、単なる偶然だ。そして、そこで見つけたのが、熊田千佳慕という人物のインタビューの記事だった。確かいくつかの写真が並んでいて、本人の顔写真も載っていた。私は、デザインやアート、ものづくりの世界で筆を取ってきたと自称する人間だ。しかし、彼のことは知らなかった。「へぇー、何だか雰囲気のある人だなぁ」。私はどうしてか、彼の風貌と名前に強く興味を覚えた。そして、そこに載せられていた絵の緻密さにはもっと深い興味を覚えた。だから、私はそこに並べられている文字を読んでみることにした。本屋さんでインタビューを読もうなんて、よっぽどだ。だいたい、私が立ち読みをする場合、その目的は意識をボーッと宙に解き放つことにある。 そんな曖昧な気分だった私が記事を読もうと思ったなんて、それだけその雑誌の編集構成が優れていたのか。それとも、他に要因があったのか。とにかく、私は目を動かし、そのインタビューを読みはじめていた。 インタビューに出ていた言葉の数々は、あまりに素晴らしかった。すぐさま私は「取材しなきゃ」、そう頭に想いが浮かんでいた。プロ・アマのイラストレーターたちが知りたい技術的なことではなく、私は彼の人生のことをもっともっと知りたいと思ったのだ。私は彼の不思議な響きを持った名前を一生懸命に記憶した。「くまだちかぼ、ちかぼ、ちかぼ」。エディターやライターというのは、客観的でなければいけない、という一般論がある。しかし、それはあくまでも初動の主観的な興味で選別を行った後の、視点や表現上での話でしかない。素材、つまり題材の選別は主観的な判断なくしては、どんな記事も物語も生まれえない。その当時、私はとあるウェブマガジンの媒体をまるまる任されていた。そのウェブマガジンは、基本的には「ものづくり」ということがテーマに据えられたバイリンガルの媒体だった。そこで取材対象となるのは、地方の中小企業の技術者や社長、そして筋金入りの職人たちである。だから、本来ならひとりの画家である彼を取材するというのは、ウェブマガジンのテーマに背くことになってしまう。それでも、私はどうしても彼のことを取材したかった。だから、取材の承認を得るための編集会議では「植物画の画家というのは、一種の職人なんです」とスタッフを煙に巻く説明して、半ば強引に取材を敢行することにしたのだった。 丘の上の家 横浜のとある駅に彼の家はある。細い路地が無秩序のニョロニョロと走る住宅地。市街地から近い割には大きな公園があって、夏の蝉の鳴き声が空にうるさく響いていた。この辺りは平坦な土地ではなくて、丘陵の地形なのだろう。道の伸び方もあたりの地面もすべてが斜めになっているような印象を受ける。100歳に近い画家の家があるのも、丘の上のようだ。なだらかなに続く階段を抜けると、丘の上に出る。「丘の上」と言っても、品の良い小市民の家が並ぶ住宅地だ。雑誌の写真で見た彼の家は、こんなに現代化された住宅街の家ではなかったはずだった。道を間違えたのだろうか? そんな想いさえ胸に浮かんでいた。何しろ今から会おうとしているのは、絵画界の仙人なのだ。古めかしい民家に、ひっそりと隠居をしていてくれるのが似つかわしい。私は無意識のうちに、そんな勝手な妄想をふくらませていた。 だから、はじめて彼の家を見たとき、あんまりにも普通だったので、ちょっと拍子抜けをしたのを覚えている。家から出てきた男の人に招かれて、中の短い廊下を数歩ゆくと、6畳ほどの部屋があった。その部屋の小さな作業机の前に腰をかけ、微笑みを顔に浮かべ座っている人物、彼こそが熊田千佳慕だ。その笑顔の柔らかさ、天上の芳しさをどう言葉で説明できるだろうか。「いらっしゃい」。芯のある、通った声があたりに響いた。小柄な90代の老人が発したにしては、あまりに威勢の良い声である。「よろしくお願いします」。私は深々と頭を下げて、挨拶を済ませると、いつもの通りにインタビューの作業へと入っていった。 美しい目 インタビューの間、彼はボソボソと話をした。それでも滑舌が悪いというわけではない。ときどきは驚くほどはっきりと強い語気で言葉を発する。見た目は確かに老人だが、まさか彼が97歳だとは、誰も思わないのではないだろうか。瞳はきらきらと輝いているし、幾分の皺が入った肌も、水分に潤っていてツヤツヤしている。舌も滑らかで、記憶も鮮明だ。話をしていると、まだ社会に出たばかりの青年と話しているような錯覚を覚えた。およそ2時間の時をもらい、インタビューを完遂した私は、彼のピュアでアナーキーな言葉の数々に打ちひしがれた。素晴らしいインタビューや感動するインタビューというものは、ときどきある。しかし、何か体と心全体が吸い込まれて、飲み込まれそうになるインタビューというものは、はじめてだった。彼は、別段、言葉数が多いわけでも、話術が巧みなわけでもない。それでも、彼の仕草、表情、声色、澄んだ瞳、美しい言葉の数々、ウィットに富んだユーモアのセンスは、聞く者の心をグッと掴んで放さないのだ。そのときの私は、仕事であることも忘れて、インタビュー中ずっと感嘆に目を丸め、ケラケラと笑いっ放しだった。何か聖なるものに触れて、自分自身が浄化されたようにさえ感じられる。また同時に、気の置ける生涯の友に出会ったようにも感じられる。 そしてつたないながらも、この彼の魅力をインタビューの記事にまとめ、世界の人たちに紹介をしたのだった。反響は世界各国からあり、私は芯のある言葉というのは言語を越えて心に共鳴するものであることを、まざまざと見せつけられた。そして、何よりも私自身が、日々の生活の中で、折に触れては彼の存在を頭に浮かべ、彼の言葉で自分を励ますということを無意識のうちに行うようになっていた。彼の言葉は、心底、人々を安心させる力を備えている。そして彼の存在は、老若男女を問わず、人々に恋をさせる魅力に溢れている。そんなことを感じていた私が、この熊田千佳慕という人物のもう少し深い部分まで入り込んで、彼の魂を本という形に残せないかと思いついたのは、極めて自然なことのなりゆきだったのだ。 新しい試みとしての物語 しかし彼の魅力を伝えるのは、簡単ではない。彼の言葉だけでも、彼の写真だけでも、彼の作品だけでも、またそれら3つの要素をただ混ぜただけでも何かに欠ける。本当の彼の魅力は、彼に会わなければわからない。しかし彼に会いたい人々全員が、彼に会うことができるはずもない。そこで、本人から彼についての書籍の執筆を許された私は、彼についての自伝的ドキュメンタリー小説を熊田千佳慕との共同作業で書いてみてはどうか、という妙案を思いついた。インタビューをして、それを彼の思考や感情を閉じ込めた物語にして、最後にそれを彼にチェックしてもらう。そうすれば、記録の本としても、物語の本としても楽しめる。この書物は、ジャーナリストの客観的視点だけで編まれたドキュメンタリーでも、彼本人の主観的な感情だけで語られる自伝でもない。客観的でありつつ主観的な物語。ファンタスティックな実話である。どうか、軽い気持ちで読んでもらいたい。序文の最後に、この新しい物語の試みは、彼の言葉「僕は新しいこと、人がやったことがないことをするのが大好きなんだ」から、着想していることを記しておこう。
きらきらと陽光が降り注ぐ、花乱れ緑溢れる庭がある。蝶や蜂が舞い、アリやカマキリが行進をする。忙しなく動き回る虫たちの中に、ひとりジッと身を屈める老爺がいる。彼の目は、ほとんど瞬きをすることもなく、虫たちの姿を追っている。ときおり太陽が映し出されるその瞳は、幼子のそれのように澄みわたっている。年のせいか、顔には幾本もの皺が走っているが、その割には皮膚には潤いがある。彼が虫を見ているのは、頭の中に虫たちの表情や動きを納めるためだ。たった数十分の間に、焼き付けられた虫たちの姿は、その後、この男の指先と彼の愛筆を通じて画用紙へと写し取られる。
板金工場から生まれたブランドの名は、エアロコンセプト。そこには、新幹線や航空機の部品技術が活かされている。生まれてまもない、メイド・イン・ジャパンのこのブランドが、今、世界を駆け巡る。一体何が人々を魅了するのか? 板金工場のオヤジのノンフィクション。
ロックであれジャズであれソウルであれ演歌であれ、今ある大衆音楽において、エレキ・ギターというものはなくてはならない存在です。おっかけギャルから、ギターキッズまで、人々を虜にしてやまないのがエレキ・ギターという楽器。ギターメイカーと聞けば、フェンダーやギブソン、フェルナンデスなどの大メイカーを思い浮かべるのが世の常でしょう。しかし、西東京の山奥でひっそりとふたりの職人によって営まれるギターメイカーがあります。噂では、このメイカー、アメリカで展示会をやれば完売するほどの人気を誇るのだとか…。一体、どうしてそんな不思議なことがなせるのか、彼らの工房、ジャージィーガール・ホームメイド・ギターまで足を運びました。